[ 「風のオーケストラ」コンサート情報に戻る ]

Program'n'Review/プログラム・アンド・レビュー

Start 2000 / オルガン連続演奏会V

風のオーケストラ

― パイプオルガンで聴く管弦楽曲の夕べ ―

会場・日時:東京芸術劇場 2001年6月29日 開演19:00
ザ・シンフォニーホール 7月3日 開演19:00
楽器:ガルニエ・オルガン(東京芸術劇場)

演奏:エルンスト-エーリッヒ・シュテンダー
Ernst-Erich Stender

Program Notes

ごあいさつ

私たちが「パイプオルガンを楽しむ会」を結成してこの2年に、オルガンコンサートの情報量が随分増えたという印象です。一つは、昨年のバッハ年(生誕250年)のおかげだと思います。これでそのままメジャーになってくれればうれしい、というのが各地のオルガンの気持ちでしょう。現実はまだまだ厳しいのですが、オルガンの聞き方、愛し方に興味を持ち始めている方々が多くなっている、という感じはします。建物と一緒になって一つの雰囲気を創り上げるこの建造物は、また、訪問する我々聴衆の楽しみ方でも多様な面を見せてくれます。

本日は、オルガンの世界をオーケストラ風にアレンジしての「おもてなし」。居心地やいかに、食卓の作品の味はいかがでしょうか?

心の満腹感が達せられますように。

パイプオルガンを楽しむ会
代表 橋本侑生子

 

組曲「展覧会の絵」―M. ムソルグスキー (1839-81)
Bilder einer Ausstellung -- M. Mussorgsky

ロシア貴族の家系に生まれ、まずは陸軍士官生であったムソルグスキーは、19歳の年に音楽で身を立てる決心をした。特に作曲に関しては独学であったが、小さい時からその楽才を示し、早世にもかかわらず、オペラやオーケストラ、ピアノ作品、歌曲等多くの作品を書いている。彼は、ヨーロッパ音楽の手法や形式を軽視し、アカデミックな音楽教育を嫌った。彼の作品は、単に楽器からだけで作り出される音楽とは違い、言葉と音楽の絡み合いを好み、その多くは音楽の世界に限らない作品群をモチーフにして生まれた。一貫しているのは、言葉とリズムにおいては徹底したリアリズムであり、表現においては印象主義である。

親友の画家ハルトマンの死は、ムソルグスキーに大きな衝撃を与えた。その遺作展覧会を訪れた彼は、その印象を音楽に置き換え、ピアノ作品として仕上げた。このピアノ作品は、管弦楽に編曲し得る作品として、モーリス・ラベルが編曲し、成功を収めた。オルガンのための編曲は、オルガニストにオルガンの響きの可能性を表現する機会を与えてくれる。組曲「展覧会の絵」は、10枚の絵の印象を表した10曲から成り、1つの絵から次の絵に移動するプロムナードという楽曲でつながれている。

プロムナード〜@こびと〜A古城〜プロムナード〜Bテュイルリー宮殿の夜(遊んでいる子供たち)〜Cビドロ(牛車)〜プロムナード〜D殻をつけたひよこの踊り〜Eサミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ〜プロムナード〜Fリモージュ(市場)〜Gカタコンベ(ローマ時代の墓)〜H鶏の足の上に建つバーバヤーガの小屋〜Iキエフの大門

交響曲 第7番 ホ長調より終楽章―A. ブルックナー (1824-96)
Sinfonie Nr. 7 E-Dur Finale -- A. Bruckner

オーストリアのアンスフェルデンで生まれたブルックナーは、楽才のあった父親の影響で、既に10歳のころには礼拝でオルガンを弾いていたと言う。その後、リンツで音楽の基礎を学ぶことになり、その近くにある聖フロリアン修道院の少年合唱団に入団する。この修道院との結びつきは、彼の生涯続くことになる。1856年、その大聖堂のオルガニストになった彼は、和声学・対位法の講師、オルガン奏者・教授として、また、作曲家としてウィーンで名声を得る。その地で死去後、聖フロリアン修道院のオルガンの下に葬られ、永遠の眠りについた。

交響曲第7番は、1884年12月30日ライプチヒで初演され、ブルックナーの作曲家としての名声を確実にした作品である。初期の交響曲にあるような、典型的なブルックナーの表現素材(オルガン点、テーマの組合わせ方、ユニゾンの旋律、反復進行の連なり、思い切った転調、力強く駆け上がるクレッシェンド)が様式的に斬新な調和へと編み上げられている。ブルックナーは、オーケストラの楽器をグループにしてつなぎ合わせていくのを好んだ。その手法は、特にオルガン作品に相応する。響きのイメージに対する彼のイメージは、オルガンにあると確信できるのだ。この第7番は、4番と共にロマンティックな旋律に富み、ブルックナーの作品の中で最もポピュラーなシンフォニーとして親しまれている。

ペール・ギュント管弦楽組曲第1番 作品46―E. グリーク (1843-96)
Peer-Gyunt Suite 1, op. 46 -- E. Grieg

このノルウェーの作曲家は、ドイツのライプチヒで音楽修行をし、スカンジナビアを活動拠点として、ピアノ作品・歌曲、そしてオーケストラ作品を残した。この作品は、イプセンの戯曲「ペール・ギュント」による組曲で、グリークにとって最高の劇場音楽となった。叙情的な作品群を生んだグリークは、その曲作りで、偉大な色彩派であることを更に証明したのである。グリークの卓越した語感に対する明晰さによって、ノルウェー語の響きが感動的である。この作品は、1876年の初演後ほんの短期間に数多くの編曲や改訂を受けながら、世界中で熱狂的に迎えられたのである。

第一曲 朝の風景/第二曲 アーゼの死/第三曲 アニトラの踊り/第四曲 山の王の広間にて

交響曲 第5番 ハ短調「運命」作品67―L.v. ベートーヴェン (1770-1827)
Sinfonie Nr. 5 c-moll, op. 67 "Schicksal" -- L.v. Beethoven

テノール歌手の息子として生まれたベートーヴェンは早くから楽才を現し、父親からは音楽の早期教育を受けていたと言う。22歳の時ウィーンに出、まずはヨーゼフ・ハイドンの生徒となった。ベートーヴェンの作品は、あらゆるジャンルを通じて数が多いが、オペラは「フィデリオ」だけである。ついには全く聴こえなくなる進行性の耳の病にもかかわらず、彼の作曲意欲は衰えることなく、多くの主要作品はその病の中で創られている。

1805年に作曲された交響曲第5番が「運命」と名付けられたのは、ベートーヴェン自身が、作曲の主な動機を「運命が入口の戸をたたくように」と言ったことに由来する。わずか4つの音による小さなモチーフが、とてつもなく大きな交響的建造物になる。第一楽章は、この一つのモチーフによって展開していく。第一楽章の力強い音の循環に対して、第二楽章のアンダンテは慰めになる。テーマは、実に慰めの歌だ。第三楽章は息苦しさを醸し出し、終楽章に向かう。終楽章はその返報に、凱旋の歌のように輝くハ長調で鳴り響く。そして、強烈に速いテンポで交響曲は巧妙に締めくくられる。芸術性豊かな構成、聴き手を心服させるに足る内容、まさにベートーヴェンの最も知られた作品である。

(頁トップに戻る)

コンサート情報:[ ふたつの風の音 ] [ 続・ふたつの風の音 ] [ 風のオーケストラ ] [ 風よ、響き渡れ ] [ 魅惑の風音2004 ] [ アーティスト紹介 ]